二十億年の孤独、で有名な、それでなくても有名な、谷川俊太郎の詩を読む。
寺山修司のような詩ではない。なんだかキラキラしている度合いがちょっと違う。
詩とは、素敵な言葉に出会う、機会だなあと思う。言葉。ことば。
貧乏で恐ろしいブラックジョークと寂しげな感じを売りにしている寺山と違い、谷川の言葉は、綺麗だ。
言葉というものの面白さと向き合う。
ちょっとネットで散策していたら、こんな短歌(詩)の紹介があったので、詩の面白さが分かりやすかったので載せてみる。
誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど 大松達知
十二分のところが二十分と誤植されていたら大問題だ。でも、これが十二年だと、もはやそういう次元を突き抜けてしまう。「それでいいかもしれないけれど」とは、単なる諦めではなくて、通勤などから解放された(だって片道十二年では通いようがないから)自由な人生への憧れなのだろう。
「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ 松村正直
子供の発想の新鮮さに感心してしまう。もちろん、イルカという言葉を知らないからそうなるのだが、それを知っている大人の口からは決して出てこない「詩」のきらめきに驚かされる。
これは、短歌だけど、短歌も詩の一種であるらしい。詳しい事はわからないのだども。
なんだかなぞなぞみたいで、面白い。「中野駅徒歩一二年ってなーんだ?」「答えは誤植」
「やさしい鮫とこわい鮫っていうけど、やさしい鮫ってなーんだ?」「答えはイルカ」
はっきりいってクイズである。しかも、ちょっと高等な。なんていうか、12年と12分という違いだけど、聞いているほうは笑ってしまうし、イルカのほうも、和やかな感じで、なにか、母と子の穏やかな生活が見えてきて、ひとつの小説を読んだかのような気持ちになる。だから、高等なクイズである、なぜだか、詩とか、寺山修司とか短歌とかいうと、小学校のとき「ポンキッキーズ」で見ていた、「怪人二十一面相」を思い出す。「たけやぶやけたか」とか「しんぶんし」とか、逆さ言葉を言って逃げていく怪人が出てくる歌をテレビで流していた。ちょっと怖い。こわい所が青森の恐山を短歌に盛り込んでいる寺山に通じている。
寺山に戻ってしまったが、谷川俊太郎の、詩は、ちょっと童話みたいな感じだ。ちんことか、普通に出てくる、男の子の喜ぶ詩だ。なんとなく理科である。そしてギャグというか…笑えるものが多い。くすっとというか、それは短歌と同じである。言葉遊びも豊富である。
読んだ後、男の子のこどもがいたら、この本を読ませてあげようと思うのになあと思った。
明るい、楽しい詩ばかりである。
日々、中だるみみたいに生活している私としては、こういう、面白い詩集は大好きである。谷川俊太郎は詩人の中でもトップレベルで有名なので、みなさんも読んでみてください。
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